テキスト文章

下品な記事を書かないと死ぬ、と組織に脅されて仕方なく書いています。

ちょうしにのって本名ブログを別垢でこっそりはじめたところ、みごとに語ることがなく、
まるでリアルの俺のようなコミュ障ぶりを発揮したことに驚愕し、
半年ほど口を利かず、ものも書かないでいたのですが、
くちさきものどを通らず、足跡は丸く、しょうが湯はこぼれ*1
話は変わって話が急に変わるはなしの話をしますが、はなしが急に変わってなんだこいつ・・急に話を変えやがってけしからん!とお思いかもしれません。とんでもないことでございます。
たちのわるい場合は(「話は変わって」のように)断りなどいれませんし、話が変わる話をするのですからその話自体が話が変わったことを示しており、次のようにして唐突に話が変わったとしても文脈から意図が読み取れるはずなのです。
わたしは真っ赤なトマトが好きだ。そしてそれを食べたいと思う。
冗長ではないでしょうか。あなたほどの文章を読む達人であれば、たべたいこれだけで、ああこいつ、いまトマトのこと考えてるな、と
見通せるのが普通です。(見通せないあなたは普通のあなたではない。)したがって同様に、「話は変わって」のように、あえて書かれなくとも続きを読めばわかることをわざわざ断るのは、あなたの時間を無駄にするばかりか、わざわざ断りを入れて話をわかりやすくしようと努める親切な俺アピールのように感じられます。感じられませんか?感じられないかもしれません。もし感じられるとしたら、それはとてもよいことではないでしょうか?良いことですね。でも、できないからといって不安になることはありません。大丈夫です!自分を信じてください!できる!あなたにもできる!ほら、気づかないうちにあなたはすでに、感じられるようになっている!いま、これを読んでいるときは、まだわからないかもしれませんが、くりかえし、2回読み、3回読んだときには、話を変えただけで話が変わったことはわかるのにわざわざあらかじめ話が変わることを明記した上、その話の内容というのが話を急に変えた話であるのだから、話を変えることについてその話自身が言及しておりああ、急に話が変わったけれど、話がかわることの話をすることで自らを正当化しようとしている話をしたいのだな、と、誰でも合点がいくでしょう。そして、上記のように、文の途中で前の文脈を無視して突然話を変えたとしても、別に不自然には感じられないはずなのです。


「たちがわるい場合には」にかけてなにかうまいことを言おうとしていたのですがわすれたので、最後にへびをかいておきます。

へび

*1:この行は文の間を埋めるためだけにかかれました。しょうが湯はさっきこぼれました。