テキスト文章

下品な記事を書かないと死ぬ、と組織に脅されて仕方なく書いています。

しこうじっけん

(ほそく)思考について

はたして人間以外の生命は思考するかという問いに対して
=>(人を特別視しないなら)していると考えるのが自然。

概念と概念の表現

第一回目の祭りならびにそれを行う人間と、それ以降の祭りならびにそれを行う人間とは、まったく別のものだ
ということを、ぼくはにわとりとたまごのことをかんがえていておもいついたのだが、
あなたはおそらくなんのことだかさっぱりわからない。
この記事の二行目以降はかんぜんに理解できることが書いてあるのに、
一行目でぼくが何を主張しているのか理解できないでいる。
なぜなら。説明が足りないからだ


しかし、もしあなたがにわとりとたまごのことをかんがえていたなら、
つまりあなたとわたしがかんがえかたにおいて同一とみなせる状態だったなら、
説明がなくてもかんぜんに理解できたはずだ。


それでは、最初の主張についてせつめいする
(せつめいした)
というわけだ。いま、あなたはぼくの最初の主張を理解できた。


そして、あなたがぼくの主張を理解できたということは、こういうことだ。
こう=「あなたはかんがえかたにおいて、自分の状態を、ぼくとおなじ状態にまで遷移できる」


もし、遷移できないなら、こういうことになる
こう=「あなたはどんなに説明されても僕の主張を理解できない」
(とちゅう)
げんごは情報をつたえるためのしんごうがふくざつになったにすぎない。
えいごは概念をろんりてきにこうせいするのにてきしているが、
ろんりでひょうげんできないがいねんはけっしてつたえられない。
(cf.ろんりてきでないことがらはろんりてきにただしいとはかぎらない)
概念と概念の表現がある。
概念は他者に伝えられない。表現は他者に伝えられる。
表現は概念と一致しないし、概念は表現に直接変換できない。

インターフェイス

わたしとまったく同じ内部状態をもつ人間(以下A)を考える。
このとき、わたしとAが同じ入力をもってるなら、
わたしとAの内部状態に違いはうまれない。


観測者にとってわたしとAは同一の概念系を共有している。
ここで私とAがひとつの脳を共有していると考えることができる。
=>おなじ脳を共有し、同じ入力を共有するなら、同一か?


発想を変えて、ひとりの人間をふくすうにわけることをかんがえる。
=>スケールによってインターフェイスと実装の個数が変わる
(ひとつのインターフェイスがひとつの個体に相当するとはかぎらない。
例えば目の代わりにカメラとディスプレイを使い、内部に二人の人間がいる箱を考えればいい。
このときインターフェース(目)は一つだが、個体(人)は二人いる。
人間はどうだろうか。眼や耳は二つ一組で、内部には一人しかいないと考えているが、
本当に内部に一人しかいないとどうして分かるだろう。もちろん、人間の脳は複数の複雑に連携したシステムの集合だ。


駄菓子菓子、にんげんはひとつのインターフェイスがひとつの概念系に相当するものとかんがえる)
(とちゅう)